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〜はじめに〜 このコーナーでは、私の永遠のテーマ「伝える」ということを、各界の方々にお話を伺っていきたいと思います。 |
私にとって、ニュースを伝えるということは? 「事実ではなく、『事実とされていること』を伝えている」 * 24時間ニュース専門チャンネルで来る日も来る日もニュースを読み続けて痛感したことは、「事実は変わる」ということでした。「事実だと思っていたこと」が否定されることがあるのです。 例えば通り魔事件が起きたと大騒ぎになります。被害者に同情が集まります。しかし、すぐ後にこれが狂言だったと暴かれることがあります。しかも、しょっちゅうあります。 もしキャスターが一報を安易に「可哀想に!」という気持ちで同情を込めてニュースを読んでいたらどうだったでしょうか? 事件でも、事故でも、調べが進むに連れ、『真実』が明るみ出てくると、被害者だと思われていた方が加害者だったり、またはその逆だったり・・・。 キャスターが安易な判断でどちらか一方が悪いと裁いて伝えては『真実』を歪めてしまうのではないでしょうか? NHKの松平アナウンサーは講義でこう語られました。 「キャスターの安っぽい感情で世間をミスリードしてはならないよ」 だから私はニュースを伝えるとき、感情ではなく、感慨を込めて読むように務めています。 「こんな大変な事が起きてしまいました。今現在『事実とされている』ところによりますと・・・」と。 * さて、報道とは「事実」に基づき『真実』を伝えるものであるとされています。 「事実」の積み重ねによって『真実』を浮かび上がらせていくものだと。ここに異論は無いでしょう。 そこで問われるのは<事実の伝え方>です。 事実ならば何を言っても良いのか?また、不完全な事実でも良いのか? 悪意を持った<事実の伝え方>は、『真実』を遠ざけてしまうということを知らなければなりません。 裁判のドラマなどで、「『裁判官の目に映る真実』と『本当の真実』は違う』」なんてセリフが聞かれますが、「証拠のある事実」と「証拠の無い事実」を見極める目を持って取材し、「事実」を並べる。 その並べ方に意図を含ませず、どれだけフラットな視座に立った上での並べ方をしていけるかどうかに報道の公平・公正さが求められているのではないでしょうか? * しかし、実際は人の数だけ『真実』があるとされるのが難しいところです。私が思う『真実』と他者が思う『真実』にはズレが生じて当然です。育った環境が違うし、感じ方、価値観が違うのですから、「何を『真実』と思うか」は人それぞれです。 でも本当は『真実』はあくまで一つであり、それを探る道(方法)が人の数だけあるのでしょう。それを人それぞれの「正しさ」であると肯定しうる視座が公正さを生むのかも知れません。 被害者側が加害者側の立場の「正しさ」に立つのは困難だからこそのマスコミの視座であり、でもその冷静な見解は往々にして加害者に権利を与え、被害者の感情に障るよう映るかも知れない・・・。 ならばジャーナリストに求められるのは多くの良質な「事実」を提供し、その先にある筈の『揺るぎの無い真実』をできるだけ多くの人に感じ取ってもらうことではないでしょうか。「大衆が望む真実の姿」に迎合することではなく、一人一人が目を逸らさず自分で探していけるように。 2005.6.5 原元美紀
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