2007.4.29 誕生日です。へへ。
「天皇誕生日」から「みどりの日」、そして今年から「昭和の日」へと3度も名前を変える日というのは、1年365日の中でも数奇な運命なのではないでしょうか?なんだか「昭和の女」と呼ばれているようで本望な気もするので、もう変わんないでね。
そして、偶然会った藤森涼子姉さんにお祝いしてもらっています。
堂々と言いますがっ、38回目です。(あれ?なんかちっちゃくなっちゃった)
でも、なぜか昔から年齢を聞かれたときに「38歳」と答えてしまう癖があり、これでようやく脳内年齢に実年齢が追いついたような気がしてホッとしています。
さて、38歳を迎えた最近の私の生活はといいますと、寄る年波か、胃腸がすっかり弱くなり・・・、
主食は「フルーチェ」
小学生の頃から粉の「フルーチェ」を買ってきては、「♪牛乳一本用意して〜、グルグルグルグルかき混ぜて〜、カップに入れて冷やしましょぉ 森永フルーチェ!」と歌いながらわざわざ作っていたのですが、待ちに待った完成品(?)の商品化!
コンビニで見つける度に買い占めています。
冷蔵庫の野菜室は「フルーチェ」専用になっちゃいました。
(もしこの日記を読んでコンビニに買いに走っても売り切れていたらそれは私の仕業かもしれません)
現在「オレンジ味」と「イチゴ味」の2種類しかないので、「ピーチ味」と「ブルーベリー味」の商品化も強く念じています
そして最近の趣味は、裁判の傍聴。
きっかけはやはり取材を通してでした。『法廷では人生ドラマが繰り広げられる』とはよく言いますが、実際は・・・、
「検察側のドラマ」と「弁護側のドラマ」とのぶつかり合い!!
「真実とされていること」と「事実の並べ方」というのは私自身「伝える仕事」をしていく上で根っこにしているのですが、それも立場が違えばこうなるのか・・・、と。
目の前で繰り広げられる「ドラマ」のぶつかり合いに息をするのも忘れるほど集中して見入ってしまいます。
「裁判所は『真実』を明らかにするところ」という理想とはまた別の次元で、自分自身が信じられる『真実』を導き出していく能力や信念を求められていると傍聴席にいながら感じています。
5000円分のポイントが溜まってるネイルサロンの電話が通じなくなった。
「次回、このポイント使いますね。」
と予告したからか?
まさか私の電話だけ通じないわけではないだろう、と行ってみると・・・、
倒産してました。
一年以上も通ったのに
私の5000円・・・
ということで新たに開拓したネイルサロンで、思いがけずネイリストのお姉さん(推定25歳)と気が合ってしまった。
お姉さん 「私ね、携帯の待ち受け、『小泉さん』なんですよ。」
私 「え?『小泉さん』ってアノ?」
お姉さん 「やだ〜。『小泉さん』って言ったら小泉前総理しか考えられないじゃないですかぁ。」
私 「な、なんでそんな写真をお持ちで?」
お姉さん 「選挙演説聞きに行った時に、握手してもらって、2ショット撮ったんですよ。」
私 「あ〜、ブームでしたからね。」
お姉さん 「そうじゃなくてぇ。私、選挙演説聞きに行くの趣味なんですよ。
他に、塩じいとか、安倍さんも写真ありますよ。」
私 「・・・、自民党が好きなんですか?」
お姉さん 「ううん、鳩山さんとかも行きましたよ。あのねえ、どんな顔してるのか見たいんですよねえ。」
お姉さんの政治談議はこの後30分ほど続きました。
ちなみに生で見てカッコ良かったのは安倍さん。鳩山さんはやっぱり宇宙人っぽかったそうな
そんな彼女には悩みがある。
演説を聞いたり写真を撮っていたりすると、場違いで怪しまれるそうな。
「でもね、そんな日本の方がおかしいと思うんですよ!」
と熱く語るお姉さんの一番好きな番組は「TVタックル」だそうです。やっぱりね
羽柴秀吉とはいかなる人物なのであろうか!?
実は羽柴氏の都知事選の出馬が噂された3月中旬、「スーパーモーニング」の取材で青森県五所川原市へ直撃取材に向かいました。
空港からは、「秀吉さんの所へ」の一言でタクシーが送り届けてくれます。
そして、吹雪の一瞬の晴れ間に目に飛び込んできたのは、大阪城!?
続いて
こ、コ、国会議事堂〜!?
これは羽柴氏の奥様が一度も当選したことがない夫を励まそうとポロッと言ったこんな一言で決定したそうです。
「アンタ、せめて家くらいは大統領なんなさい。」
でも、大統領なら『ホワイトハウス』じゃないの・・・?
気さくに出迎えてくれた城主?大統領?総理大臣?羽柴秀吉氏!!
作業着姿でしたっ
眉毛が時代劇の俳優さんのように真上に逆立っていました。(これも秀吉風?)
ちなみに国会議事堂は観光ホテル。
城の中は、なんと選挙博物館になっています。これまでの選挙活動GOODSが展示されていて、
「三上誠三」→「羽柴誠三秀吉」→「羽柴秀吉」
というポスターの変遷に、羽柴氏の歴史を感じます。
さて、なぜ羽柴氏は政治を志すのでしょうか?
それには氏の生い立ちが大きく影響していました。
太宰治、吉幾三の出身地、津軽三味線の発祥地でもある雪深い北津軽郡金木町(現・五所川原市)に生まれ育った羽柴氏は極貧の暮らしを送っていたそうです。
「みんな今でも俺のこと『金木の貧乏モン』だって言うんだよ。俺はすんごく貧しかったの。中学もやっと出たの。
トラック買って運送業やって商売で成り上がってきたの。
だけど、自分だけ金持ってたってちっとも幸せじゃないんだよ。周りも幸せじゃないと意味無いんだよ。
だから俺は利益還元するの。
経営のことなら任せてくれ。
この経営で得たノウハウと精神を政治に生かしたら日本中み〜んなが幸せになる。そうしたいんだ。」
「戦国武将の生まれ変わりだ」と寺の住職に言われ、『羽柴秀吉』の本を読み、「俺も現代の秀吉になる」と決意した羽柴氏。尊敬する人物にはやはり極貧から総理にまで登りつめた田中角栄氏を挙げています。
今回の取材(3月中旬)では、羽柴氏は都知事選に出馬するか夕張市長選に出馬するか決めかねていました。
「『秀吉』を名乗っている以上、天下獲りを狙って日本の都・東京に打って出たい気持ちはある。
けど、母ちゃん(奥さま)が毎日こう言うんだよ。
『あんた、夕張は大変なことになってるよ。アンタの私財投じて助けに行かなきゃ男じゃないよ!』って。
だから私財の半分の100億(!)持って駆けつけようかとね。」
結果はみなさんご存知の通りでした。
羽柴氏は夕張市長選への出馬を選び、7人の候補者の中で2位という善戦を繰り広げました。
昭和51年以来、10回以上の選挙に出馬しては落選を繰り返す羽柴氏は、いつも「楽しみました」などという感想は言いません。今回も目に涙を浮かべ落選の挨拶をするその姿に、本気を感じました。
(ところで、いつまで『羽柴』なの?)
昨年、財政破綻から「全国最低の生活を強いる再建計画(案)」が発表されて以来、夕張に通い続けました。
市民の方たちとともに住民説明会にも足を運び、どれだけの絶望と不安を抱えているのかを肌で感じました。
「なぜこんな事態になってしまったのか!?」
全くこの一言に尽きます。
「炭鉱から観光へ」 という夕張市の歩んできた歴史は、当初「成功例」として取り上げられてきました。しかし、「実態は赤字だ」ということが判った時にはもう手の施しようがありませんでした。
360億円もの借金の大きな要因となったハコモノ行政。
11月に初めて夕張を訪れてみて気になったのは、そのハコモノの『閉鎖』状況でした。
といってもこれ、『経営悪化による閉鎖』ではないのです。理由は・・・、
『冬だから』。
冬季は雪に埋もれてしまうため、10月31日〜4月末まで閉鎖とのことでした。
ちょっと待って!夕張って例年11月下旬から春までは雪かきが必要なほど積雪に覆われる地域でしょ?
何を今更・・・?
「幸せの黄色いハンカチ広場」、遊園地、ロボット博物館・・・。30もの「ハコモノ」の資料を調べてみると、驚くことにハコモノの多くが「1年の半分は閉鎖」なんです!!
これでは「観光の街」とは言えないのではないでしょうか?(この写真を撮った時にも閉鎖されていて小屋の中には入れませんでした)
浮かび上がってきた奇妙な事実。
それは、炭鉱の街に補充される特例措置を元にバブルも手伝い、夕張の気候も考慮しないほどイケイケドンドンだったハコモノ行政の実態。
その観光事業を支えていた特例が次々と打ち切られ、人口流出にも歯止めがかからず、すでに忍び寄る「破綻」の足音が聞こえていたはずなのに造り続けられたハコモノ。
ある夕張メロン農家の方が重い口を開いてくれました。
「街が炭鉱の好景気に沸いている頃、私達は平坦部の少ないこの土地で苦汁をなめながら独自に農産物の開発を続けていた。
炭鉱はもうダメだと誰もが感じていたはずなのに、有効な努力をしてこなかった。結局、市全体を衰退させてしまったこの人たちも何も責任が無いとは言い切れないと思うよ。」
同じ市民として現在の状況を複雑な思いで眺めていらっしいました。
そして、国のエネルギー政策の方針転換、ハコモノ行政の失敗、市政のチェック機能の甘さ、そのツケは、子供たちとお年寄りに回ってきました。
小中学校では統廃合を余儀なくされ、片道30分かけてバスで通学する子供達が出てきてしまいます。
「この辺りの学校は、子供が勉強するだけじゃなく、何か有ったら住民が集まる憩いの場とか集会所でもあったのに・・・。人口が減っていく時代だからこそ、地元で自分達の子供を大切に育てていたのに」
と学校がどれほど皆さんの暮らしのそして心の拠り所になってきたのかをせつせつと語る市民の皆さん。大事に育ててきた子供達を遠くに通わせなければならなくなる親達の不安は通学バス程度では解消されません。
それでも市営住宅、昔の炭鉱住宅に暮らすお年よりはこの土地を去ろうとはしません。
その理由を、突然の解雇を告げられた(実際には新聞発表で知った)石炭博物館の館長さんはこう語ります。
「あの丘を見てください。花がね、咲くんですよ。
炭鉱マンはね、700メートルもの地下に潜って働いていますから、住むところくらいは太陽の光が届く高い土地に住みたがったんですよ。庭にはたくさん花を植えてね。
当時の炭鉱マンはずいぶんと亡くなってしまいました。
でもね、その花が今でも春になると咲くんですよ。だからここを離れられないんです。」
今日の夕張の投票率の高さに表れるように、夕張の皆さんが自身の手で市を建て直すことを心から心から願って止みません。
携帯ニュースサイトで、速報メールが届くサービスに入ってから、もう数年が経ちます。
今までなら旅行などでTVや新聞が身近に無いときにはチェックできないままでいたニュースが確実に手元に届くようになって、意識させられたことがあります。
それは「死刑確定」の多さ。
今日もひとつの事件で死刑判決が確定しました。
1999年、2人が殺害され6人が負傷した東京・池袋の通り魔事件です。殺人罪などに問われた元新聞販売店員、造田博被告(31)の上告審で、最高裁は被告側の上告を棄却し、1、2審の死刑が確定しました。
通り魔殺人という行動は決して許されるものではありません。
何の落ち度も無い人たちの人生、夢、全てを奪った凶行。犠牲者の中には、突然のことに何が起きたかも判らず、「交通事故に遭ったのか」と誤解したまま絶命した人もいました。そして、遺された人たちのやり切れなさと悲しみの深さ・・・。
最高刑を持って罰せられる以外には考えられません。
死刑「存続」か「廃止」かについては様々な意見が有りますが、本当に考えなければならない問題は、「最高刑に値する犯罪が少なくない」というところにあると私は思います。
みなさーん、ちゃんと選挙に行きましたか?
私はしっかりジョギング中に用紙を握り締め向かいましたよ。(聞いているのは『ドリーム・ガールズ』のサントラです)
途中汗でグシャグシャになりそうになって慌てましたが、
それでも投票に向かう私は「エライ!」と自画自賛していると・・・、なんとタクシーで会場に乗り付け投票を済ませるとまた急いで去って行くという方もたくさん見掛けました それだけ今回の選挙は関心も高かったということでしょうか。
それにしても会場ではいつも「ご苦労様です」と声をかけられますが、いえいえとんでもない。こちとら義務ですから それよりも選管のみなさんこそ長時間お疲れ様でした。
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