「戦争と平和」と題し、今、「私」たちにできることって・・・。(後編)
「あらゆる質的なものは量的なものに転換されてしまった。いや、量的なものへと消散してしまった・・・。例えば戦争は、今ではもはやその本質から−つまり敵を打ち負かそうとするその本性から自己を形成するのではなく、単にその構造的大きさ(容積・堆積)から自己(戦争そのもの)を存在させているに過ぎない。」
「そして量の法則に従って、戦争は人間を引きつけるのである。単独の人間はこの巨大な逃走の堆積の引力から逃れることは出来ない。人間は、神からの逃走というこの原罪が自己の眼前にあるということに、もはや気づくことなどもう出来ないのだ。」
「戦争が途方もなく巨大化したのは、そしてますます膨張増大していったのは、単に戦争というものが大きいからなのだ。人間がつぎつぎに倒れていったのも、戦争そのものが拡大していくことが出来るために他ならなかった。・・・人間たちは戦争の邪魔になってきた、だから彼らは死のなかへと押しやられるのだ。そして、戦争は人間たちが立っていた場所を越えて、どこまでも押し進んでいく。」
以上は、今からちょうど40年前、マックス・ピカード著「神よりの逃走」という本の中で語られた言葉です。
この戦争が始まって、真っ先に思い出された言葉です。なぜならこの戦争が、「神の名のもと」に作戦を遂行し、その声明を「私」たちは報道の中に何度も耳にすることができるから。今回の戦争に限らず、いつの時代も人間は・・・。
連日ニュースでは、世界各地で起こっている反戦デモの様子を取り扱っていますが、その映像を見れば見るほどなぜか・・・「空しさ」を覚えます。
それはグラウンド・ゼロを訪れた時に感じた「真空のような無」ではなく、戦争という歴史の中で蓄積した虚しさで「充たされた無」といったものでしょうか。
「あなたはこの戦争に反対?それとも支持?」という二者択一の質疑応答が、世界中の街を埋め尽くしたかのように思えます。正直言って、この余りにも極端で曖昧な選択肢で繰り広げられる会話に、うんざりもし更に空しさが増すみたいな・・・。
「戦争反対!!」とか「NO MORE WAR!」といった言葉はもう20世紀で使い古され、今では時代錯誤的なニュアンスを含んでいるようにも聞こえるのはなぜでしょうか。
かつて60年代から70年代にかけて花開いたあの世代意識は、結局、世界を変えることは無かった。何も変わっていない・・・。いや世界の情況は寧ろさらに悪くなったと言えるかも知れない。地球規模での環境汚染しかり、民族紛争、また経済状況なんかも。
そんな空気の中で育った「私」たち「X世代」は、今一体何をどうするべきなのでしょうか?「私」たちはもう無関心ではいられない、次の世代への責任を感じられる世代なんだと思います。サイレント・マジョリティーと呼ばれようが・・・。
「戦争反対」なんて誰でも言えるし知っている。「私」たちはもう十分知っている。戦争とはどんなものなのかを。
でも、「平和」って何??
「平和支持!」なんて言葉、聞いたことがない。どうしてだろう?それは「平和な世界とは一体どんなものなのか?」について、真剣かつ具体的に「私」たちが考えたことがないからかも知れない。
人間は今まで「戦争反対」と声高に叫ぶことによって、その戦争の規模なり程度を少なからず抑制出来てきたかもしれない。しかし戦争そのものは無くならなかった。誰もが戦争に反対にもかかわらず。なぜなんでしょう?
みなさんは「平和な世界って何?」と質問されて、具体的にみんなが納得できる「答え」を持っていますか?「戦争のない世界が平和・・・」といった曖昧な「答え」では、もうダメでしょう。次の世代に笑われそうです。
何が言いたいの?・・・をクッキリさせると、この戦争で訴えられている平和って、なんなの?世界中が漠然と平和なの?
キリスト教が考える平和もあるだろうし、イスラム教、ユダヤ教、仏教・・・とそれぞれ考える平和だってあるだろうし、宗教的にだけでも数え切れない平和像が浮かび上がってきそうです。
さらには、自分の家族・友人・恋人のような間でさえ、平和についての考えは大きく違うかもしれない。ただ一つ、どの「答え」も曖昧であるだろうという点だけは共通するかも。
つまり、それぞれが思い描く平和は未だ曖昧なままで、その辺に「平和」というものの希薄さ、「戦争」という確固たるものへの無力さが漂っているように思えてしまうのは私だけ?だから「LOVE & PEACE」みたいに、「愛」の力を必要にするのかと、皮肉っぽくも思う。
「愛だけでは地球を救えない。私たちはそのことを良く知っている。愛の力を過信したばかりに人間はそれ以上何もしなくなった・・・」
ちなみにイラク国民に対して、アメリカが言うところの平和つまり民主主義なるものを、私たちが推奨する筋合い(資格?)はあるのでしょうか?
日本国内だけを見ても、繰り返される日々のニュースでは、殺人事件や誘拐事件、親による幼児童虐待事件・・・と終わりがありません。でもそれってマクロな視点から見れば、まさに戦争の構図そのものであり、国家レベルでの拉致事件であり、そして独裁権力者による圧制を敷かれた市民の姿となんら変わらない。呆れるくらい同じもの。質・量の違いなんて問題にはならない。
そんな国のどこが平和で、どの辺が民主主義なのか具体的に教えて欲しいです。
あと反戦デモの先頭を歩く方に聞きたいことがあります。米国によるアフガニスタン(タリバン)攻撃の時はなぜ、デモはこんなにも起こらなかったのかその戦争の意味の違いを・・・。あれは平和的解決だったのでしょうか?な、な、な、なんでだろう・・・?
ってゆーかさ、「平和的解決」って何です??そんな曖昧な表現、私は戦争同様に支持できない。大体そんなものが本当にこの世に存在していたら、戦争なんて起こるはずないよね。ぶっちゃけそんなもん無いんだよ!だから国連があって、未だにそれが何か分からないから話し合ってるんじゃないの?だから結局、国連決議は平気で無視される。確固たる戦争というものの前では。それが人間の歴史。
「Personal is Political」という考えは60年代に叫ばれた言葉ですが、まさに逆も真なりであって、国家レベルでの犯罪行為だろうが、日常レベルでの犯罪だろうが、それを成しているのは「私」たち人間に変わりは無い。
一体どんな「平和」をもってし、「反戦」を訴えたり民主化を勧める気なのだろう・・・。下手をすれば平和なる曖昧なイデオロギーの押し売りになってしまわないのだろうか・・・。
唯一の被爆国である日本は、もちろん「反核!」でありますが、何故にこの国には2大反核団体があるのん?求める平和が違うから、意見の上でも一つにまとまってないのでしょうか?単純に何かが変だと思いました。
基本的なところに潜むこのナンセンスさはやはり、曖昧な「平和」というものの認識にあって、さらに戦争同様に、平和というもの自体が曖昧なまま巨大化してしまったのかも知れません。
「反・戦争」、「反・核兵器」なんて考えには、誰も反対しないでしょう。しかし、「私」たちは一向にその「脅威」に対し反抗するだけという意識(Attitude)から抜け出せていないんではないでしょうか。
その意識の極みが「人間の盾」であり、その行為を変だと言っているのではなく、平和に対して「私」たちは今まで具体的に、意識的に語り合ってきていないという事実を見逃せないと言いたいのです。
誰かの「平和」と隣の誰かの「平和」は、いつか争うことになる・・・という歴史は繰り返され、平和の名のもと戦争は永遠に終わらない。
戦争というものの正体は、裏を返せば「曖昧なる平和 対 曖昧なる平和」だったりするかも知れない。だからこそ「戦争と平和」というテーマをどうしても考えなければならない。それも、平和とは何であるかを・・・。それは余りにも不確実なままだから。
今更ながらジョン・レノンの曲「イマジン」は、なぜあんなにも人々に影響力があったんでしょうか?
♪天国や地獄も無く、国や宗教も無く、僕らの上には空があるだけで、その下でみんなが平和に今日という日を生きている・・・。
まっ、これがジョンのイメージした平和の世界観だったんでしょうが、これだって曖昧と言えば曖昧なのでしょう。今現在、はっきりしている事は、この歌とは程遠い世界が作られてしまったと言う点で、逆説的に的を射たプロテスト・ソング(反戦歌)であることでしょうか。
でも、私はこの歌の歌詞の中で気に入っているところが2箇所あります。
それは「LOVE」という単語が1回も使用されていない点と、And the world will be AS one・・・というところです。つまり、世界は一つになるだろう・・・と言う際、「THE one」ではなく、「AS one」としているからです。
それは世界をパワーポリティックス的に「唯一のもの」にまとめ上げるような考えではなく、「一つのようなもの・・・」としている、ジョンの現実世界に対する理解力のあらわれであるからかな。ただの反戦歌、夢想家ではない点でしょうか。
「LOVE&PEACE」って何?停戦状態の世界で各自が生きること?いや、生き長らえること?平和ボケって何?曖昧だって証拠!?
「愛」の力を否定する気はありません。でも、「愛」は「私」たちを結びつける力はあっても、強い礎に成り得る力はあっても、その先をどうするかは人間が決め実行することであって、進みたい方向性も何もなければ日常レベルの恋愛のように終わってしまうでしょう。
いつもそう。「問題なのはシステムではなく、人間にある」。一番に曖昧なのは、人間という生き物かもね。でもそろそろ進化した方が良いかも知れない。だから平和って何かを具体的に話し合わなければならないし、「私」たちの世代は今更イマジン聞いて夢見てる場合ではないと思ってます。それに、反戦デモに参加する人たちの「純粋な祈り」だけは無駄にしたくはないから・・・。
たとえば作家ミヒァエル・エンデは著作「モモ(1973)」の中で、「時間」というテーマを介しこう語ってます。
「生きるため、生き残るために必要なのは、政治の場でも、経済の場でも、文化の場でもいい。まずは自分が暮らしてみたいと思えるような世界像をつくりあげることじゃないだろうか・・・」
そしてエンデは常に「ポジティヴ・ユートピア」という価値観を訴えていました。
それはつまり、間違った状態から脱出する為には、脱出する先のイメージをも生み出す必要性があり、現状批判がネガティヴなものであっては意気消沈するだけであり、未来の文化について具体的な「夢」を描くことが出来れば、その行き先は磁石のように人間を引きつける力を有するというものです。
そしてその行き先とは、幻想的神話的世界(エデン)ではなく、現実的肯定的世界(ポジティヴ・ユートピア)であるとしたのです。
彼はまた、現在の「環境(自然)」を前にし不安定にある人間の状態は、決して「世紀末」「終末論」などという否定的見解による兆候ではなく、新しい地球(人類)規模での意識が生まれようとしている暗示であると考えていました。
この意識のあらわれは、ビート・ジェネレーション(60年代)でいうところの「ONENESS」であり、その後「グローバル・ブレイン」とか「ガイア」といった理論に繋がることになりました。しかしこういった「意識(考え)」は、神秘主義的なものとしてでしか受け取られない現状が続きました。
しかし、最初の宇宙飛行士がボストーク号に乗り宇宙へ飛び出し、地球がぐんぐん後退して見えて行った時、国境が意味を無くし始めました。これら宇宙の開拓者はもはや、特定の国、階級、人種ではなく、全体としての地球と人類にアイデンティティーを感じはじめました。
そして現在「私」たち人間は、地球を映像として見ることが出来、誰もがその「グローバル・アイデンティティー」を得るチャンスを平等に与えられています。アメリカの心理学者エリクソンが語るところの「all human identity」とはそう言う事なのでしょう。
でも一方で人間は、宗教的・人種的・民族的感情により自分を帰属させる対象を保護しようとし、「自国が正しかろうが間違ってようが」お構いなしの愛国心、血と土へのそれこそ神秘主義まがいの思慕の念、よそ者に対する地元の人間の尊大な優越感といった外国人嫌いの原動力を持ってしまったようです。
この帰属によるアイデンティティーこそが、地球レベルに限らず日常レベルでも「疎外感」という問題の核になっているかも知れません。
エンデはこうも言ってます。「善や悪とはなにか」、「美しいとは醜いとはなにか」、「高潔や卑劣とはなにか」、といったものに対する価値観を育てる事無くして人間は生きては行けないだろう・・・と。
だから「戦争反対!」、「戦争支持!」という、戦争を軸としたネガティヴな物の見方(価値基準)を、まず「私」たちは変えなければね!
「このままではいけない!」と思う単純で純粋なものが、人間には平等に与えられているし、そして人間が心から「どうしたらよいか、自分は具体的に何を望んでいるか」という「祈り」を具現化させることが今望まれているのでは・・・。
できるだけ多くの人が、平和という曖昧なものに対し、各自ポジティヴなヴィジョンを心の中に強く持つというところから始めたいね。
「そこから流れていけるような世界を見つけたい・・・」から。
「嘘つきの糸を切って真実と向き合う、勇気があるって信じたい・・・」から。
現時点でその世界を「ストロベリー・フィールズ」と呼ぼうが、「ポジティヴ・ユートピア」と呼ぼうが、名前なんか関係ないし、なんでもいい。みんながそれぞれ今(!)自分でいいと思う世界の在り方を少しずつ確かなものにして行ければ。それがココロの中であっても、そういった気持ちで今日という日々を一生懸命生きて行ければいいと思う。
♪「Imagine all the people living for today〜」、みたいに。理想主義のバカじゃん!って誰かに思われようがね(笑)
目指す場所は遠くじゃなく、案外近くにある・・・、そう信じたい。だからあの時代(とき)咲いた「花」を胸に抱いたまま、そして壊れ欠けた「夢」を拾い集めたら、そう立ち上がって、ずっともう前だけを見てまっすぐ進んでいけばいい。
間に合わないなんてことはない。「私」たちの間を駆けぬける「夜」という心の闇は今、確かに何かの意味を持って、きっと「私」たちを強くしていくんだ・・・そう祈りたいね。
♪The Answer,My Friend,Is Blowing In The Wind.The Answer Is・・・(ボブ・ディラン)
答えはいつも風の中・・・。誰の「正しさ」の中でもなく、そう、「私」たちの「間」にある。あのサムシーン(砂嵐)の風の中、兵士たちはその砂塵の彼方に一体なにを見るのでしょうか・・・。神?家族?愛する人?それとも・・・本当の自分?
「私」が信じる神さまは、きっとすべての人から等しい距離にいてくれる、そんな、闇夜を引き裂く希望の流星のような・・・。
P.S 「私」たち←という表現は、『AS ONE』を意味しています。
「イラク・米英」戦争について。
(前編)
知人から「一神教 VS 多神教(岸田秀・著)」という本を紹介されて読んでみました。こんな見方もあるのねん!
ゾロアスターより生まれし火柱3兄弟は、あの地で三つ巴戦を繰り返す運命だったんでしょうか・・・?
やっぱ「神の味噌汁」っ!? (\(@▽@)/ワーイ 私も使っちゃった〜)
でも最終的に、その神さまって一体・・・誰?火の用心??
しばらく日記をお休みしてしまってごめんなさい。
実は、うちの母が体調を悪くして入院手術を受けたので、いろいろと看病などしておりました。おかげさまで無事終わり、回復へと向かっております。
その間に、掲示板にもみなさんが書き込んでくださっていますが、語らなければならない問題が今起きていますね。
私なりの考えを、この日記に綴りたいと思います。もうちょっと待っててくださいね。
終わりました、確定申告。ふーっ。
とにかく数字アレルギーの私としては、一年で一番辛い日です。
私の場合、フリーアナウンサーという立場なので、仕事で購入したものは経費として申告できるのは嬉しいことなんですが・・・、その際、「いくらのモノをどのくらい使ったのか」という減価償却の計算もしなければならないんですね。
「10月にスキャナーを買ったからぁ・・・、12ヶ月分の3ヶ月使ったことになる。ということは金額に12分の3をかけてぇ・・・。あれ?分数の掛け算ってどうやるんだっけ?」ここでSTOPです(泣)
一年に一度、脳細胞がどんどん消滅していることを思い知らされる日でもあったようです。
忙しいっす、確定申告。
明日が受付最終日だというのに、まだ領収書の山に埋もれています
神楽坂女声合唱団の練習では、先生方のおしゃべりも楽しみの一つです。テノール歌手のS先生がこんなお話をして下さいました。
「オペラ歌手が太っているのは、重量のある声を安定して出す為に自分の体を重しにするからなんですね。でも、先日後輩と合宿に行って温泉に入ったら、周りの人たちから、『相撲部ですか?』と聞かれました。そこで、一句。『オペラ歌手 歌わなければ ただのデブ』(苦笑)」
そして、こんなお話も。
「私は神楽坂の他にもいくつかの合唱団を指導していますが、コンサートのメンバーをオーディションで決めることもあります。その時に、『私、お金なら持ってるんです!』と言ってくる人がいるんですよ(笑)」
ど、どーいう意味なんでしょうか・・・。
私たちの神楽坂女声合唱団に限って、『お金で・・・』なんて事は決してありません。すべて実力です!(泣笑)チャリティーですからね〜。
NNN24のキャスター仲間の千葉めぐみ嬢と一緒に観劇!
美輪明宏さん主演の「黒蜥蜴(くろとかげ)」の初日公演です。
めぐちゃんは美輪さんの舞台は初体験。そして何を隠そうこの私、実は「美輪明宏友の会」に入会しておりまして、ここ10年、ほとんど観てます。へへ。
きっかけはやはりこの「黒蜥蜴」でした。
私が新人アナウンサーとして名古屋のCBCにいた頃のことです。病に倒れていた美輪明宏さんの伝説の舞台が25年ぶりに再演されると聞いて、まず先輩のSアナが観に行かれました。彼女は次の日、うっとりとした表情で「ああ、私はこれまでなんて安い芝居ばかり見ていたのかしら・・・と思うほどすごかったわ」と短く語ったのです。それなら、と私もその日のうちに劇場に足を運びました。
小学生の頃、夢中で読んだ黒蜥蜴。この世の美しいものを全て手に入れコレクションする女盗賊・黒蜥蜴と名探偵・明智小五郎との戦い。追う者と追われる者はいつしか惹かれあうが、悲しい結末を宿命づけられ・・・。子供心に大人の恋愛の怪しさ、危うさといったものを感じて憧れてたっけ。
そして・・・、江戸川乱歩の原作のイメージのままに、浪漫、退廃美、夢想、レトロ、サディズム、マゾヒズムetc. といった要素が、三島由紀夫の脚本によってさらに重厚で、豪奢で、洒脱で、叙情的に彩られ、それを美輪明宏さんが、それこそ宝石よりも輝いたドレスを身に着け、シャンソンでも歌うかのように軽やかにそれでいて的確に胸の中心をえぐるかのように美しいセリフの洪水を浴びせ・・・、んもうっ、究極の退廃的耽美の世界が繰り広げられました〜。
すっかり魂を抜かれてしまった私は、翌日同期の小高アナに「とにかく観てぇ!!」と叫ぶのが精一杯。そのただならぬ様子に小高アナも劇場へ・・・。
そして、この三島由紀夫の脚本を購入し(今は販売していないので貴重!)、小高アナと成り切って練習しました。
さて、千葉めぐみ嬢ですが、幕が降りた後、「言葉が無いわ・・・」と放心状態でした。やっぱりね(笑)
帰り、夜道を歩いてると、なんか顔に降ってくる。
「痛〜い」と拾ってみると、ありゃま…キラキラと光ってるではないかっ !
「あっ・・・、霰(アラレ)だぁ?」
そっか、今日は雛祭りだしね、と納得しちゃいました(笑)
さて問題です!
「体脂肪! ヘロヘロ〜 うわのそら… お肌ぁー! 呑んべぇ〜」
「5人そろって・・・」
自分を救えっ!!
この爆笑CM、知ってます〜??体脂肪の役が黄じゃなくてあえて(?)赤ってのがかなりウケタね!(笑)
やりました!昨日、初めて自分の手作りビーズでTVに出たんですよん♪
ごちらの、クリスタルとライト・アメジスト(パープル色)のビーズ、ホワイト・パールを組み合わせた小ぶりのネックレスでーす。
前々から、手作りアクセサリーでテレビに出たいな〜と思っていたのですが、いかんせんニュース番組なのでなかなか・・・。
そこで、本を眺めていたら、「これならOK!」という控えめなネックレスを発見!
夜鍋すること30分(早くなったでしょ!?)めでたく完成し、あとはチャンスを待つのみ!
NNN24では衣裳はすべてスタイリストさんが用意してくれるので、大抵、当日にロッカーを開けて初めてどんなモノを着るのか知るのです。
で、この日の衣裳は真っ白なスーツ!やったぁ、これなら早速ビーズのネックレスが着けられるぞと、大喜び♪
記念にスタジオでパチリです。でも、悲しいことに誰も気づいてはくれなかったようです・・・。まぁ〜ね〜そんなとこ見ないか〜、と思いきや!次の日は逆に、「今日の衣裳・・・、胸元が・・・スゴイ!?」というみなさんからのメールがたくさん届いたのですが(笑泣)
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